一金会の誕生については、松尾宇一著「日向郷土辞典」に次のような記述があります。
「東京にある宮崎県人中、中年以上の有志を以て組織す。東京には古くより宮崎県人会があり、毎年春秋二回づつ会合して親睦が図られて来たが、昭和三年頃郷土出身の諸氏が発起して、在京県人有志を定期的に集め、県関係の時事問題等を話し合い、又重要なる県の事に就いて協力して来たのがこの会の発端である。そしてその会合が毎月第一金曜日に開かれることとなったので、会の名称も「一金会」と名付けられた。」
一金会は、以上のように辞典にも残る由緒ある会ですが、会の特色として、特に会長を置かず、出席者全員が幹事であり、世話役として民主的に運営されて来ました。歴史の積み重ねから会には一種の品格が生まれ、在京県人有識者の懇談の場となり、月一回の会合は和気藹々の中に一つの見識を生む会として定評がありました。
最近は数人のボランティアの世話人で運営されていて、原則として、1月、4月、7月及び11月の第一金曜日に新年会や県出身の著名人による講演会及び引き続いての懇談会が開催されているのが現状です。
(ご参考)
在京宮崎県人会・一金会 の由来について
宮崎県の場合、県人が一丸となって親睦相和して行事を挙げたという記録は少なく,殆ど見当たらないが、郷土出身の先哲偉人を中心にして、在京の有志が集い、その栄進を祝福した記録は残されている。
明治外交の総仕上げともいうべき偉大な業績を残した巨人、小村寿太郎侯が明治31年9月13日駐米公使に任命された時、在京県人によって送別会が催されたが、その時の記録が「高鍋郷友会報告」明治31年(1898年)10月号に残されている。
「今回外務次官より特命全権公使に転任、米国駐箚被仰付、9月22日出発せらるる小村君は、飫肥出身の人なるをもって、宮崎県青年会、発起者となり、氏の送別会を九段坂上,富士見軒にて開けリ.時正に10月16日の日曜日に当たりしをもって、出席者殊の他多く、凡そ百名にも上りつらんと思われる。順て来会者揃うを待ち、幹事手塚敏郎君は簡単に開会の旨を述べ、小村君が答辞を述べられたり、云々」
更に、明治39年(1906年)1月号には次の記述がある。
「小村侯が明治39年1月28日,即ち、ポーツマス条約締結、第一次外務大臣を辞した直後、上野精養軒に於いて行われた在京県人会の「帰国歓迎会」(ポーツマスと北京から帰る)の席上250余名(在京学生も交わる)の郷友を前にして小村侯が挨拶された 云々」
明治31年の場合は、宮崎県青年会発起人となっているのに対し、明治39年の帰国歓迎会ははっきりと在京県人会と主催者が明記されている。
(追伸)